OMORI考察まとめ

みんなOMORIやろうぜ 英語版の内容に基づいています

OMORIと文学作品の関係 その2 ドリアン・グレイの肖像

 ※このブログのすべての投稿には、ゲーム「OMORI」についての重大なネタバレが含まれます

 

みずからの主人である人間は、自由に悦びを創りあげることができるし、また、それと同じに、容易に悲しみに終止符を打つこともできるのだ。ぼくは自分の感情のとりこにはなりたくない。逆に、感情を利用し、享楽し、支配したいのだ」

オスカー・ワイルド, 福田恆存訳「ドリアン・グレイの肖像」(新潮文庫

初めに断っておくが、このページの考察はRedditに投稿された、次の指摘をベースにしている。

www.reddit.com

youtu.be(OMORIのデモ。"A bookshelf filled with books from Dorian Gray"という文章が確認できる。)

 

BASILがもともとROWANという名前であり、途中からBASILに変更されたという話を前回はした。では、BASILという名前はどこから来たのか?

 

それはオスカー・ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」に登場する画家、バジル・ホールワードからだ。

 (以下、小説「ドリアン・グレイの肖像」のネタバレを含む)

 

友人の画家バジルのモデルとなった美青年ドリアン・グレイは、逆説家ヘンリー卿が紡ぎ出す自分の若さと美への賞賛、及び奔放な生活こそ最高の芸術だとする言葉に酔わされ、バジルの描いた肖像画を前にして、肖像画のほうが歳をとればいいのにと言いだす。

ヘンリー卿の言うとおりの生き方を始めたドリアンは、若い舞台女優シヴィルと恋に落ち婚約をする。しかし本当の恋を知ったため平凡な女優に成り下がってしまったシヴィルをドリアンは幻滅し捨ててしまう。その日、ドリアンはバジルから貰い受けた自分の肖像画が醜くなっていたのを見て驚く。シヴィルが自殺したのにヘンリー卿とオペラを見に行くドリアンをバジルは非難し、例の肖像画に変わったことはなかったかと問う。図星をつかれて驚いたドリアンは肖像画を屋根裏部屋に隠す。

それから20年後、バジルは、ドリアンの奔放な官能主義に関するうわさの真偽を確かめるため、彼の家を訪ねた。ドリアンは噂を否定せず、自分の正体を見せると言って例の肖像画を見せる。醜く変貌した肖像画を見て責めるバジルをドリアンは逆上し殺してしまい、その死体の始末を、かつて悪徳を共有したがゆえの弱みを握っている科学者に強いる。

罪におののくドリアンは麻薬に溺れアヘン窟に出入りするようになり、そこである男に殺されそうになる。それは姉の仇をとらんとしていたシヴィルの弟ジェイムズだった。ジェイムズはドリアンの若さを見て人違いを謝るが、直後ドリアンがふしぎと老いないことを聞き知り、郊外で催されたパーティーまでドリアンを追いかけてくる。しかしジェイムズはそこで兎狩りの誤射により死ぬ。

安堵したドリアンは心を入れ替えようとするが、ヘンリー卿に一笑に付される。いよいよ醜悪になった肖像画を見てドリアンは、改心も偽善と好奇だけのことではないかと思う。この肖像画こそ自分の良心だと知ったドリアンは絵を破壊せんとする。悲鳴を聞いて駆けつけた者らが見たのは、美青年の肖像画と醜い老人の死に姿だった。

(Wikipediaより)

 さて、すでにここまででドリアン・グレイとOMORIの対応関係は顕著だ。Redditが指摘する通り、BASILは「現実をそのまま写し取る写真家」であり、SUNNYに対して異様な崇拝(と愛情*1 )を寄せ、偶像化している。「君がやったはずがないよね……?」「君の背後の何かがやったんだ……」

 

また、OMORIの核心部分となる要素の多くが、「ドリアン・グレイ」から変奏されて取り入れられている。舞台女優であり、ドリアンに裏切られて自殺する姉シヴィルと、その復讐を誓う弟のジェームズ。決して年を取らず、いつまでも同じ姿を保っているドリアン(とSUNNY。「あなたは4年前と全く変わっていない」と言われるのはSUNNYも同じである)。そして、ドリアンは「肖像画」の秘密を知り、またシヴィルの自殺の真相を握るバジルをナイフで刺殺する。事件を「偽装」するために呼ばれた科学者アランは、ドリアンの犯罪隠匿を手伝った後姿を消す(その後ひっそりと自殺したことが知らされる)。

ドリアン・グレイにおける代名詞ともいわれる、悪徳の根源ヘンリー卿。彼はドリアンとバジルを引き合わせ、堕落した生活をそそのかし、「君に犯罪が犯せたはずがない」と言うドリアンの保護者のような存在だ。しかし、これは「みんなの保護者」たらんとするHEROと重なるものの、その善悪の価値観については完全に逆である。Redditで言われているように、最初はHERO=HENRYがヘンリー卿と同じポジションに立つことを想定されていたのかもしれないが、プロットを突き詰めるうえでその構想はなくなった──そしてHENRYという名前は放棄された──のかもしれない。

 

OMORIと「魂」

ワイルドは『ドリアン・グレイ』の中で,画家バジル・ホールワ ード(Basil Hallward),青年貴族ヘンリー・ウォットン卿(Lord Henry Wotton),美青年ドリアン・グレイ(Dorian Gray)を通して「魂」を描いているが,これら 三人の登場人物についてワイルドは,ラルフ・ペインという人物に宛てた1894年2 月12日付の手紙の中でこのように書いている。


この本(=『ドリアン・グレイ』)には私の多くが含まれている。バジル・ホールワードは私が自分だと思う人物だ。ヘンリー卿は世間が私だと思っている人物である。そし てドリアンは私がなりたいと思う人物だ―おそらく別の時代においてであろうが。
島原知大「ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』における登場人物の相関関係(I)

 SUNNY、BASIL、HEROのMARIの死への受け止め方は、ある程度これと近似することができる。SUNNYはある意味「理想的な」対処法である……全てを無視し、自分だけの世界を構築して引きこもるなど、並大抵の人間ができることではない。むしろBASILのように、恐れを抱き、罪と後悔の念に押し潰されそうになるのが普通だ。

HEROはMARIの死を乗り越え、今まで以上に学業に集中しているように思えるが、実はMARIのことを1日たりとも忘れていない(そして一度も墓参りに行くことができていない)ことがわかる。

 

 

 

上の論文によれば、ドリアン・グレイにおいて問題とされているのは「肉体と魂の結合と分離」がもたらす美である。

バジル・ホールワードはドリアンの肖像を完成させるうえで、ドリアンの「肉体の美しさ」と直接対峙し、芸術家として自らの魂をさらけ出す。そして完成した作品は「ドリアンの「魂」とバジルの「魂」が「融合」して完成した芸術作品であるのだ。」(Ibid.)

一方、ヘンリー卿が勧める悪徳の美学を支えるのは、徹底的な快楽主義と分析能力である。「したがって、「肉体」の究極の理想とは徹底した「快楽」(pleasure)の追求であり、それはしばしば「罪」(sin)という言葉で表現される。」(Ibid.)

OMORIにこのテーマが移されたとき、「肉体と魂」の関係は少し変形されることとなった。(VTuberが活躍する世の中では、肉体は「具体的な美」を表現する唯一の手段ではない。)それは目に訴えかける優美さ、耳に心地よい音楽といった表現に変換される。感覚的な美というべきだろうか。

「いかにもRPG」なポップな世界観。敵を倒すと経験値とお金が入り、レベルアップし、ナイフで「心臓を直撃」しても誰も死なない世界観。それはある意味「退屈」な現実パート(FARAWAY TOWN)とシュールレアリズムホラーそのままなBLACKSPACEの両方と対照をなしている。分離は2回行われているのだ。

 

OMORIはSUNNYのAlter Ego(もう一人の自分)であるが、ドリアンの肖像と違い醜くはなっていない*2。その部分はBLACKSPACEに埋葬して、pleasureをもたらす部分だけを取り出しHEADSPACEを構築した。

 

したがって、 「OMORI」における「肉体と魂の分離」は以下のように行われたと整理できる。

SUNNY (罪の意識)

→SUNNY(罪をOMORIのほうへ押し付ける) + OMORI in WHITESPACE(友達の楽しかった記憶、後悔の意識をすべて引き受ける)

→SUNNY(罪から逃れられずひきこもる) + OMORI in HEADSPACE (楽しかった思い出をもとに、明るい世界を構築) + OMORI in BLACKSPACE (暗く残忍な一面を閉じ込める)

WHITESPACEにおいて、スケッチブックはOMORIが見ると奇妙な世界が見られ、BLACKSPACEではさらにおぞましい何かが隠されているのを見ることができる。

SUNNYがトゥルールートで真相と向き合うためにWHITESPACEに戻ってきたとき、スケッチブックはほとんどからになっている。……これはSUNNYがOMORIほど残酷な性格でないこと、そしてBLACKSPACEの暗い部分、HEADSPACEの明るい部分の両方を再び「自分のもの」として引き受けたことを示唆している。

 

ドリアン・グレイではドリアンは最後改心しようとするが、そうするにはもう遅すぎることに気づく。そして、

あたりを見まわすと、バジル・ホールウォードを刺し殺したナイフが眼にとまった。かれはそれを、血痕が完全になくなるまで何回となくこすった。冴えきった刃がきらりと光る。このナイフは、かつてあの画家を殺したごとく、いまやその画家の作品と、それがもつすべての意味とを刺し殺すのだ。このひと突きで過去はなきものとなる、過去さえ死んでしまえば、おれは自由の身となれる。このひと突きで怖るべきこの魂の命が消え、魂の呪わしい警告さえなくなれば、おれは平和を獲得できるのだ。かれはぐっとナイフを握りしめ、目の前の絵を突き刺した。

オスカー・ワイルド, 福田恆存訳「ドリアン・グレイの肖像」(新潮文庫

この描写を見て、いわゆる「ナイフエンディング」を思い出さずにはいられなかった。SUNNYが写真を塗りつぶすのにとどめ、破いたりしなかったのは幸運と言えるかもしれない。なんといっても、現実パートで4人が再び集まるのは、BASILが心から写し取った、みんなの生き生きとした写真があったからなのだ。

 

脱線しすぎたのでまとめ

「OMORI」はデモ版では明確にしていた「ドリアン・グレイ」への言及を間接的なもの(バジルの名前)にとどめるようにした。しかし、2つの話の根幹は変わっていない。それは「人間の魂」の問題である。

オスカー・ワイルドの時代と違い、私たちが醜い自分自身から逃れる方法は2通りある。それは「表面的な美、外面の体裁を整えて他人をごまかし生きていくこと」あるいは「現実から逃れ、自分の過去を気にせずに生きられる場所(例えばネット)、で生きること」の2択である。どちらも決して悪い選択肢ではない。だが、いつかは逃げずに向き合わなければ、「いつか君はたった一人で逃げ続けていることに気づくだろう。」

*1:リーダーズ英和辞典を引くと"flower"の訳として「≪俗≫同性愛者」「≪俗≫めめしい[女みたいな]男(の子)」が出てくるように、flower boyという呼び名はかなりはっきりとバジルの性的傾向を示唆している。

また、バジルはいつも花の髪留めらしきものを頭につけているが、オスカー・ワイルドもまた花(緑のカーネーション)を自分のシンボルとして胸に飾っていたという。

*2:ただし、SUNNYルートでラスボスとして戦うとき、彼の「本性」が見えるようになっていく、と解釈することもできる