※このブログの全ての投稿にはゲーム「OMORI」についての重大なネタバレがあります
──あちら側というのは、暗い場所になるわけでしょうか。
そうとも限りません。むしろ、好奇心と関係している気がします。ドアがそこにあって、開くと、別の世界へ足を踏み入れられる、好奇心そのものです。向こうはどうなっているのか? そこはどんな所なのか? 日々そうしたことを、僕は体験します。小説を執筆中は朝の4時ごろに起き、自分のデスクに向かい、書き始める。これらは、現実の世界で起きることです。僕は現実のコーヒーを飲む。
──村上春樹、井戸の底の世界を語る:The Underground Worlds of Haruki Murakami, Wired
考えたことはないだろうか。HEADSPACEの水中世界が"DEEP WELL"「深い井戸」と呼ばれるのはなぜか(井戸は入口にしか過ぎないのに?)そしてその深奥、HUMPHREYがいる場所はなぜ"DEEPER WELL"と呼ばれるのか?
明らかに、井戸には井戸以上の象徴がある。
「井戸」の象徴
「わかります」と加納クレタは言った。そして自分のこめかみを指した。「もちろん何もかもがわかるというわけではありません。でも答の多くはここに入っています。中に入っていけばいいのです」
「井戸の底に下りるように?」
「そうです」
──村上春樹「ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編」, 新潮社
さて、日本で「井戸を下る」ことを何度もテーマにしてきた作家といえば、村上春樹である*1。つい最近出たロサンゼルス・タイムズの批評でも語られているので、海外でも同じ認識がされていると考えていいだろう。
そもそも井戸とはフロイトの精神分析学で使われる言葉「イド」──自我(エゴ)よりも下層にある、無意識的な、原始的な領域──とのダジャレである。村上春樹の登場人物の多くが「井戸の底に降りて、別世界を探検し、再び地上へと戻ってくる」経験をすることになる。そこは往々にして危険な場所であるが、同時に避けては通れない、必然的な通過儀礼でもある……やさしい世界であるはずのHEADSPACEで、OMORIたちが唯一生命の危険を感じる場所がHUMPHREYであるし、ここがBLACKSPACEに到達する前の最後の障壁として立ちはだかる。
DEEP WELLが「イドの世界」であるという仮説からも面白い結果が導き出せるが、これについてはフロイト的解釈についてまとめた別稿にゆずる。ここでは、「OMORI」の世界観の成立に村上春樹的モティーフが多大な影響を与えている、という仮説をベースに、いくつかの要素について考察を加えたい。
2つの世界を交互に旅する構造
は小説・映画・ゲームで珍しいものではない*2が、村上春樹が頻繁にこの語り方をするのは読者の中ではよく知られている。最初にそれが現れたのは、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(1985年, 新潮社)である。
(以下、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」のネタバレを含む)
この小説は2つの小説が合体したものである*3。≪世界の終り≫では主人公は完璧な街、「世界の終り」に閉じ込められる。そこでは人々は「影をもたない」*4。あるいは、心をもたない。人々は同じ作業を繰り返し、ただ一角獣の群れだけが過ごす様子を観察するだけだ。主人公はそこで自分がなぜここに来たのか、何を求めているのか、そして街から脱出する手段はあるのか、探索を続けることになる。
≪ハードボイルド・ワンダーランド≫は近未来めいた技術が跋扈する東京を舞台にした「疑似ハードボイルド小説」である。情報をあらゆる手段の暗号を駆使して守り抜こうとする「計算士」(システム)、その情報をなんとしても盗み取ろうとする「記号士」(ファクトリー)がサイバー戦争を繰り広げる時代*5。計算士の主人公は、ある博士からの依頼でビルを訪れ、極秘の研究資料を持ち帰る。しかし、その計算結果を届ける直前、博士が失踪し、主人公は家を襲撃されぼろぼろにされてしまう。「このままでは世界が終る」と博士の孫娘から聞いた主人公は、東京の地下、「やみくろ」が跋扈する巨大な地下水脈を旅することになる……
(以下、結末までのネタバレなので、まだ読んでない人はぜひ一度読んでみてほしい。多くのアンチ村上春樹の人が、「ハードボイルド・ワンダーランドは良かった」というぐらい評価が高い小説だ)
さて、結末を言ってしまうと、「世界の終り」とは博士が主人公の脳に埋め込んだ、疑似的な世界=物語である。博士は「絶対に解読されない暗号」を作るために、その「暗号鍵」を人間の無意識に埋め込むことにした。主人公は脳内に隔離された世界を旅することで、無意識のうちにデータを暗号/復号化する。そのため「私」を含めた誰一人として情報を盗むことができない、「絶対に破られない暗号法」が完成した。
だが、好奇心が抑えられなかった博士は、最も核となる部分に隔離されていた「世界の終り」とほかの脳の領域をつなげるジャンクションを開放してしまう……そして、物語が脳全体を侵食していく。それはすなわち、主人公が現実世界から切り離され、永遠に夢を見るようになることを意味していたのだ。
「やれやれ」と私は言った。
「しかしあんたはその世界で、あんたがここで失ったものをとりもどすことができるでしょう。あんたの失ったものや、失いつつあるものを」
「僕の失ったもの?」
「そうです」と博士は言った。「あんたが失ったもののすべてをです。それはそこにあるのです」
村上春樹の主人公はみな、「失った何か」を求めている。それは往々にして「昔の恋人」「離婚した妻」である(リアリズム小説である「ノルウェイの森」でさえ同じだ)。
彼らは失った何かを求め、奇妙な別世界を旅し、井戸を下り、壁を抜ける──だが、「失ったもの」は手に入らない。
それが、僕の作品の大きなテーマです。何かが失われ、それを探し、見つけ出すといったテーマです。僕が書く登場人物の多くは、失われたものを求めていく人たちです。その対象は女性かもしれないし、理由、あるいは目的かもしれない。
ただ、なくなってしまうのは、たいせつで、重大なものということ。たとえその人物が見つけ出しても、ある程度の失望が待っていること。なぜそうなるのかはわかりませんが、それが僕の小説でのモチーフとなります。探索し、発見はするが、最後はハッピー・エンドにはならないのです。
──村上春樹、井戸の底の世界を語る:The Underground Worlds of Haruki Murakami, Wired
「OMORI」においても、基本的にこれと同じ構造が踏襲されている。OMORIは失われたBASILを求めて世界を旅するが、同時に現実世界では失われたMARIを追い求めている。トゥルーエンディングでは、OMORIはHEADSPACEを抜け出す。その世界は失われ、2度と夢の中でMARIと会うことはできなくなるが、変わらぬ友情と、新たな未来への希望は残される。
バッドエンディングについて
「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公は博士に質問する。「世界の終り」が完璧で、変化のない物語であるのはなぜか。人間の寿命は有限なのに、どうして永遠の世界が可能なのかと。
博士は「百科事典棒」を例にして説明する。ある百科事典の情報をデータ化して、ひとつの0から1までの数字に規格化する。それを必要な精度で一本の棒に刻み込めば、有限な範囲にどこまでも膨大な情報を詰め込むことができる、と。
「わかりますか?問題はソフトウェアにあるのです。ハードウェアには何の関係もありません。それが楊枝であろうが二百メートルの長さの木材であろうがあるいは赤道であろうが、何の関係もないのです。あなたの肉体が死滅して意識が消え朽ち果てても、あなたの思念はその一瞬前のポイントをとらえて、それを永遠に分解していくのです。飛ぶ矢に関する古いパラドックスを思いだして下さい。『 飛ぶ矢はとどまっている』というあれですな。肉体の死は飛ぶ矢です。それはあなたの脳をめがけて一直線に飛んできます。それを避けることは誰にもできません。人はいつか必ず死ぬし、肉体は必ず滅びます。時間が矢を前に進めます。しかしですな、さっきも申しあげたように思念というものは時間をどこ までもどこまでも分解していきます。だからそのパラドックスが現実に成立してしまいます。矢は当らないのです」
「つまり」と私は言った。「不死だ」
「そうです。思念の中に入った人間は不死なのです。正確には不死ではなくとも、限りなく不死に近いのです。永遠の生です」
死にゆくものは死ぬ前に意識が加速する、よって「ほかのものから見ればいつかは死ぬ」ものの、本人の意識世界の中では決して死ぬことはない。
OMORIのバッドエンディングは、Bo Enの"My TIme"を背景にひたすら病院から落下し続けるOMORI=SUUNYの描写となっている。YouTubeのコメントなどでこの病院の高さを測ったコメントなどがあるが、当然これはプロローグの「異様に長い階段」などと同じく比喩表現、あるいは心理的描写である。OMORIは目を閉じ、友達と一緒にHEADSPACEの中を探検している。彼は決して死ぬことはない。なぜなら、物理的法則により地面に到達するより前に彼の意識がその時間を分解し、主観的時間の中では永遠に「その瞬間」を先延ばしにしているからだ。
"My Time"は間違いなく、眠ることについて歌った曲である。
エレベーター
村上春樹の作品の中で、「井戸」と並んで別世界への入り口になるのが「エレベーター」である。実際、「ハードボイルド・ワンダーランド」の冒頭の描写も、「上昇しているのか下降しているのかわからない」エレベーター内の描写で始まっている。
OMORIにおいても、BLACKSPACE内のエレベーターの描写、特にLAST RESORTから移動するときの描写に、その影響を見出すことができるかもしれない。
ドーナツ化
村上春樹が好んで取り上げる食べ物として有名なのはスパゲッティだろうが、ドーナツの描写が多いことも触れておくべきだろう。
「あなたにはまだわからないの?」とドーナツ化した恋人は言った。「私たち人間存在の中心は無なのよ。何もない、ゼロなのよ。どうしてあなたはその空白をしっかり見据えようとしないの?どうして周辺部分にばかり目がいくの?」
どうして? と質問したいのは僕の方だった。どうしてドーナツ化した人々はそのように偏狭な考え方しかできないのだ。
SWEETHEARTはCAPT. SPACE BOYから"sweet jelly-filled donut"と呼ばれているが、これは比喩ではなく、実はSWEETHEART自身がドーナツであることが明らかになる。*6
「ドーナツ化」とは都市の中心部が逆に寂れていくことを指す言葉であり、先ほどの引用では「確固たる核心(CORE)をもたない人間の象徴」としても扱われている。「OMORI」では心に常に空虚さを抱えている人物という意味も込められているかもしれない。"heart"は心だけでなく中心という意味も持つが、甘いドーナツの彼女の中心は「無」であるのだから。
ここまでいろいろ書いてみたが、当然本当に製作者が村上春樹に影響を受けたのかは知らない(村上春樹のフォロワーも沢山いるし、その中のどれかの作品に使われているモチーフが共通していたのかもしれない)。しかし、「これってあれの象徴じゃね?」といろいろ勘ぐってみるのも楽しいものだ。
次回:フロイト的領域についてかな?