OMORI考察まとめ

みんなOMORIやろうぜ 英語版の内容に基づいています

OMORIと文学作品の関係 その1 オイディプス王

こういう作り方は、ビデオゲームでは、ほかに例を知らない。近いものを挙げれば文学になるが、中勘助の『銀の匙』だろう。あの作品では、たがいに関連がないように見える(したがってすべてが余録に見える)子供時代の回想が、終盤部の、あるひとつの現在の〈現実〉に結びつけられることで、それまで繋がりがわからなかった個々のシーンが、一気に読者の記憶から呼び覚まされ、肉迫してくる。ようするに、中勘助が洗練された文章で読者を引っ張ったように、『OMORI』はグラフィックと音楽とテキストと演出で、プレイヤーを最後まで引っ張ったのだ。

ひきこもり少年の精神世界を描くホラーRPG『OMORI』コラム――ゲーム内容の8割が夢の中である理由と幻想的な物語構造の新奇さについて

 「OMORI」というゲームの独創性は、ひとえに藤田祥平氏が上記のコラムで指摘した点にかかっている。プロットだけでなく、手法でさえ独創的とはいえないかもしれない。しかし、物語としては何百年、何千年と使い古されてきた形式を、圧倒的な情報量とその有機的な結合によって語り直し、没入感を高めている。そのため、メインストーリーだけでは話がまるでわからず、非常に要約がしにくい作品になっている。

それは通常のゲームというより、小説に近い。そして、実際にこのゲームがいくつかの文学作品に影響されていることが示唆されている。

 

「『OMORI』のプロットそれ自体は、物語に親しんだ人間ならば、そこまで新しいものではない。大胆に要約すれば、ある少年が過去に犯した過ちを見つめ直す、といったものになるだろう。」(同コラムより)

 

 

OMORIの起源が製作者OMOCAT氏の制作したブログ漫画であることは知られているが、この時点では「ひきこもりの少年と空想の世界」というコンセプトは確立しているものの、まだ物語の根幹…SUNNYの罪とその贖罪というテーマはまだ決まっていなかったように思える。

さてこのプロットの起源はどこなのだろうか。

推測になるが、それは名高い古典ギリシア悲劇ソフォクレスの「オイディプス王」である。

 

オイディプス (略) もしお前たちのうちに、ラブダコスの子ライオスが誰の手にかかって、最期をとげたかを知る者があれば、私はその者に命ずる、その旨を包まずこのわたしに申し出よ。

(略)

テイレシアス わしの気性を責めながら、あなたと一緒に住んでいる自分のものがみえぬのか。そしてこのわしばかりを咎めなさる──。

(略)

テイレシアス きたるべきものは、おのずからやってこよう。いまこのわしが、口をつぐんで蔽っておいても──。

オイディプス王」は世界初の推理小説とも称される筋立てをもっている。テーバイの街の王オイディプスは都市を襲う飢饉に苦しんでいたが、ある日それは「先王ライオスを殺した犯人がいまだに処罰を受けていないからだ」という神託を受け取る。かくしてオイディプスは犯人捜しを始めるが、賢者テイレシアスが強要されて喋った内容は「犯人はオイディプスその人である」ということであった。

オイディプスはそれを否定する、なぜなら自分はキタイロンの山奥で育ったのであり、「お前は将来父を殺し母親と交わる」という神託を受けたから遠く離れたテーバイの地にやってきたのだと。だが一度は王座を狙うための陰謀と片付けた後にオイディプスは考え始める。そういえば昔、三又路にて突然襲い掛かってきた老人を殺したことがあった。あの時の老人の描写は、伝え聞く先王ライオスのそれと似てはいないか?なぜ妻のイオカステは話を聞いた後、蒼い顔をして出て行ったのだろうか?

果たして使者が届き、オイディプスを育てたのは実の親ではなかったこと、ライオスとイオカステの間に生まれた子供は「将来父親を殺し、母親と交わる」と予言されたため殺されるよう命令されたこと*1、だが使者は情にほだされ、赤ん坊を殺さずに山奥に捨ててきたことが判明する……そして気づいた時には、イオカステは首を括って死んでいた。

かつして、

あのかたは、妃の上衣を飾っていた、黄金づくりの留金を引き抜くなり、高くそれをふりかざして、 御自身の両の眼ふかく、真向から突き刺されたのです。こう叫びながら。──もはやお前たちは、この身にふりかかってきた数々の禍も、わしがみずから犯してきたもろもろの罪業も、見てくれるな!いまよりのち、お前たちは暗闇の中にあれ!目にしてはならぬ人を見、知りたいとねがっていた人を見わけることのできなかったお前たちは、もう誰の姿も見てはならぬ!(以上,藤沢令夫訳「ソポクレス オイディプス王岩波文庫による)

 オイディプスは最終的に真実を知るが、彼はその罪と悲惨な結果を直視できず、目をつぶしてしまう。SUNNYがBASILと対面したとき、片目をつぶされるのは示唆的である。*2

 

オイディプス王は今から2400年ほど前に書かれた作品であり、派生作品も当然多い。使い古された内容とも言ってよい。だが、プロットとして抜き出したときの「過去に犯した罪を見つめなおす」という要約と、このゲーム自体の体験からもたらされる感情が驚くほど違うのも事実だ。

その既視感と新鮮さの組み合わせが、OMORIを新しいゲーム体験たらしめている要素であろう。

 

オイディプスがこれほど有名になったのは、フロイト精神分析学で「エディプス・コンプレックス」として大々的に取り上げられたからだ。権力をもった父親を殺すというテーマに着目した結果だが、当然そうした読みには批判もある……というか、最近ではさすがにフロイト流の文学の読み解きは少なくなってきた。

OMORIについても、父親殺しというテーマはほとんどない(SUNNYの父親についてはほとんど描写されず、また反抗心を抱いたという描写もない)。あえて「父親殺し」に近いものを挙げるとラストのOMORIとの戦闘になるが、これも「無理やり当てはめるとそうなる」といった感じがある。むしろ原作のオイディプスがもつ、避けようのない悲劇と、それに立ち向かう人間の実存といった部分がいかされているのはすでに述べた通りである。

とはいえ、フロイト的な見方が完全に否定されているわけではない。なんといっても「夢判断」を出版した第一人者を無視するわけにもいかない。フロイト心理学の観点から見た「OMORI」については別稿にゆずる。

 

オイディプス王」と「OMORI」をさらに比較してみよう。アリステトテレスの「詩学」では次のように述べられている。

悲劇とは、真面目な行為の、それも一定の大きさを持ちながら完結した行為の模倣であり(略)[ストーリーが観劇者に生じさせる]憐れみと怖れを通じ、そうした諸感情からのカタルシス(浄化)をなし遂げるものである。

アリストテレス, 三浦洋訳『詩学』, 光文社, 古典新訳文庫より

アリストテレスは憐れみや怖れを呼び起こすためのストーリー展開として「逆転」と「再認」を挙げる。逆転は人が良かれと思って起こした行動が正反対の結果をもたらしてしまうこと、再認は登場人物が(知っていたものを、もう一度知りなおす形で)真実を認識することを指す。オイディプス王の中では、使者がオイディプスの悩みを取り除こうとして昔の話をし、かえってオイディプスに耐えがたい真実を知らせてしまう。このように逆転と再認が同時に起こる状態を、アリストテレスは最も優れた例としている。

 

ひるがえってOMORIに戻って考えれば、あの黒い写真を集めていく場面が、同様に逆転と再認の機能を果たしている。プレイヤーはSUNNYと共に知っていたはずの真実を知り、何者かなんとなく推定できていたSOMETHINGの「真の」正体を見つけショックを受ける。そしてそこで語られるのは、BASILが何よりもSUNNYのことを思っていたこと、そしてその思いの結果こそが彼らを苦しめる原因になっていたことだ。

 

こうして高められてきた緊張はBASILとの戦闘を通じて高まり、そして最終決戦でカタルシスへと変わる。このような点でも、OMORIは(意識的かどうかは別にしても)古典的な悲劇の形式を踏襲しているといえるだろう。*3

*1:すなわちオイディプスの悲劇をもたらしたのは「お前は将来父親を殺す」という神宣そのものであったということであり、これは「予言の自己成就」の例として詳しく研究されてきた。OMORIではぴったり当てはまるものはないが、"Everything is going to be okay"(みんなうまくいくようになるから)という言葉が逆にSUNNYとBASILを追い詰めていくところに、似た空気を感じることができる

*2:両目をつぶされるとさすがにゲームとして進行が難しくなるし、彼の場合は罪を隠していたのは4年間であるから、まだ真実を知ることの代償が小さかったともいえる

*3:アリストテレスはいう「(ストーリーには)まず何よりも、不合理な部分をまったく含まないようにすべきである。もしも避けられない場合には、『オイディプス王』の中で、先王ライオスがどのようにして亡くなったのかをオイディプスが知らないでいるように、ストーリー化される内容の外に置くべきである」(アリストテレス, 三浦洋訳『詩学』, 光文社, 古典新訳文庫)。OMORIでよく指摘される、「偽装工作を行っても、検死をしたらSUNNYとBASILの犯行はばれるのではないか」という点だが、この不自然さは同じくストーリーに関わらないところに上手く隠されている。